昭和50年12月23日 月例祭
今年も愈々余す所、ここ一週間あまりで、新しい年を迎える事になります。先程秋永先生が四十八回目の月次祭。確かに今年最後の月次祭ですから、月に四回ありますから丁度四十八回目の、今日はお月次祭に当る訳です。本当に四十八回のお月次祭が別にこう変わったと言う事もない。まぁ言うならば同じ様な形式で、同じ様なお祭りが度重なって、四十八回もあるので御座いますけれども、一度だって又こんな同じ様な事をしなければならないと思うた事はない。
矢張りする事成す事は同じでありましても、するその時の心持が違いますから。矢張りさらなものとして、そのお祭りが頂けてきたと言う事が、有難いなぁと今お祭りのご祭典中にそんな事を、秋永先生が言われた事。又そんな事を思わせて頂いておりましたら、大きな、立派なこの蓮根を一本頂きました、御神願に。それは矢張り様々な事の連続で御座います。それこそもうあの一節一節のあの節の所は、汚い黒いものが付いておったりその節から折れそうに、飄々とする様な時もありましたけれども。
それがそれなりに折れもせずにおかげを頂いて、四十八回同じ様なお祭りを仕えて参りましたけれども、その一回とても同じ気持ちではない、矢張り有難いという思いで、四十八回のお月次祭を過させて頂いて来たと言う事が有難い。それは三度三度頂く白いご飯が、又白いご飯とも思わずに、矢張り美味しい、美味いと思うて頂いてきて、それが血に肉に成って来た事と同じ様な物を、私は感じます。
どうでしょうか、度々同じ様なお祭り。それでも矢張り又あげな事は省いても良かろそうなもんと思う事も無く、それを有難く拝めれると言う事は、お互いの心がそれだけさらな、いやそれだけ心の成長を見ておるからで御座います。そこでそういうおかげを頂いて。ただ白いご飯を頂いて、ただ同じ様な物を頂いて来たけれども、それが今日まで命を頂き、今日までのおかげを頂き続けてきたと言う事をです。私は心から先ずお礼を申し上げなければならない。そういう気が致しました。
私の心の中にこう言う様な、まぁ事もなんともつきませんけど、まぁだ年の瀬にはまぁ何日かありますけれども「年の瀬や、行き交う人の顔様々、」と、顔色々というても良い訳です。もう師走風の吹きすさぶ町をもう恐らく私は出てもいませんから、分かりませんけれども、沢山の人が行き交いおうておるけれどもその一人一人の人が。嬉しそうな顔をしておる人がある。
それこそ沈痛な思いをして、表情をしておる人がある。この人は自殺するとじゃないだろうかと言う様な顔色の人すらあるということで御座います。それがお互い一つ信心をさせて頂いて、おかげを頂いていくので御座いますから。もう本当にその行き交う人の顔、いろいろがです。みんな勿体ないなぁ有難いなぁ今年もおかげでね。無事に年を越させて頂くことが出来ると言う事は、本当に有難いと言った様な表情の方達ばかりが、合楽にご縁を頂いておる人達の表情でなからなければならんと思う。
まだここ一週間あまりの、年の瀬には、間が御座いますけれども。まぁだ沢山安心が出来ない人が有ります。毎日毎日手形に追われているという人も有ります。この年末は是位が先生、なからなきゃ越されませんというお届けもあっております。もう様々な上にそういう問題を、皆んなが抱えておりますけれども。それがそのギリギリでも必ずおかげになると確信してまぁ、私はお取次ぎをさせて頂いておるので御座います。
まぁそこでなんですけれども、私はその日暮しが有難い。本当に神様のおかげと言わなければおられない。さぁ今日食べるのはあったけれども、明日食べるのが無いと言う様な場合であっても。矢張り明日は明日で、何か神様が与えておって下さる。まぁこれを脇から見ておったらはらはらする事でも御座いましょうけれども。自分自身はそこに神様にゆだねておる、任せてある安心でその日その日が過ごされる。
同じその日暮しというても様々でしょう。千円のその日暮しの人もありゃ、万円のその日暮しの人もありますけれども。もうギリギリになっておかげを頂くと言う事も有難いけれども、その日暮しではないそれこそゆとりのある優雅な。
それこそ真善美に溢れる生活の中に、金光大神のお取次ぎのおかげでという、おかげの心を心一杯に頂いて過ごさせて頂けれると言う事が、本当は神様の喜びであり、私共のまた願いでもなからなければならないと思うのですけれども、それがどうもギリギリの時、ギリギリになってバタバタしなければならない。バタバタすりゃ矢張りおかげを受ける事は受けるけれども。これによってなら神様の絶対とか、間違いなさを信じたり、又はそれを分からせて頂く訳ですけれども。
そういう豊かな生活の中に、神様のお働きと言うかおかげをより有難く、心に頂き止めながらの信心生活が出来る様になると言う事が信心理想であります。おかげ理想の世界であります。金光様の御信心しとれば何時もその日暮しだ。そら成程その日暮しも有難い。私共の生活の上にも様々な家庭が御座いました。それこそ一本の蓮根ではありませんけれども。その一節一節を大事に折れる事もなし、今日までおかげを頂いて参りました。そしてその蓮根のまぁ何ですかね、蓮の台うてなとでも申しましょうか。
もう本当に不安もない心配もない、ただあるものは有難い勿体ないの、それこそ蓮の花の上に座っておる様な心の状態。いうならば極楽の状態合楽の状態。そういう心の状態が開けてくる生活が、矢張り神様の氏子信心しておかげ受けてくれよという願いはそこにあるのです。それは世の中には沢山。お金にも物にも一切に恵まれて、もうあちらこそ極楽であろうと言う様なお家であっても、様々な問題を抱えておられて、もうそれこそ金やら物やらはどうでも良い。
この命一つ助けてさえ貰やお金は、もうみんな上げたっちゃ良かと言う様な病気等にさいなまれておる人もある。金じゃないただ物じゃない。本当に人間関係さえ都合よう行くならばと言う様な人もあるのですから、矢張り極楽の世界というものはです。矢張り合楽の世界を目指さなければ頂けない。私だけがおかげを頂いておっても、神様の御恩恵に浴しなければ。心の上にも物の上にも、健康の上にも許されなければ、本当の極楽はないと言う事が分かります。
神様にも喜んで頂き、自分も喜べる世界が合楽の世界である。それには私共がその日暮しの、言うならば。的確な神様の働きを頂いて、神様を愈々信じ神様を。言うなら確信の生活が出来る喜びの生活が出来る。これならば幾ら何を与えても、もう落とす事もあるまいと言う様な信心を、私共が目指すと言う事が取りも直さず。言うならそういう只今申します様な、結構なおかげの世界に住む事が出来るのであります。
そらもう本当に毎日毎日、神様の間違いなさと言うのはです。もうぎりぎりの所に駆け込む様なお願いで、おかげを頂いていっておる方達を見るにつけても、本当に神様は間違いないなぁけれどもこうまで、ばたばたせんでも済む様なおかげの世界があるのに、そういう世界を目指させて貰い。そういう信心とはどういう、信心をさせて頂いたなら良いかと言う様に、お互いが愈々信心の。焦点をそこに置いて日々稽古をしていかなければいけないと言う事になります。
先程三橋先生が前講にお話を致しておりました様に。金光大神の世界に住む。お互いは金光大神の世界に遊んでおると言う様な感じがする。ただそこを通過してそのまぁ旅行者の様なもんだ。そこに住み着かなければいけない。金光様の信心を頂いておるから、皆んな金光大神の世界に住んでおると言う事ではない。金光大神の世界とはあれもおかげであると言う事が分かると同時に、これもおかげと分かるという世界が、金光大神の世界であると、三橋先生は頂いて。
そこのところを日々起きて来る問題の中からです。確かにそうだ確かにそうだと言う事を確かめながら、信心生活をさせて頂いておるという話を致しておりました。矢張り目指すところが、そこでなからなければいけんのです。ところが私共の日常生活の中にはね、あれはおかげであったばってん、これはおかげでは無いと言う事。先日も福岡の高橋さんとお話をした事でした。
百何十人のやっぱ従業員がおりますから、様々なのがおるわけです。○○工場の工場長なんかは、もうとにかくそのがみがみ言うて、もうとにかく人が居つかない。もう入ったかと思うともう辞めていく。原因はというとその工場長があんまり厳しく、がみがみ朝からやかましゅう言うからだと言う事である。だからもう一層この様な人は工場長を辞めさせようか、首にしようかと思う様にあるのですけれども考えてみると。
あれもおかげであり是もおかげであると解れと、先生が言われるからやっぱり是もおかげと思わなければいけんのでしょうか、と言う様な質問になって来る訳です。私は黙っておりましたそしたら又こう言われるのです。考えて見ますと何年前にどこどこの支店長どこどこの支店長と言うのは、もう本当にもう辞めさせようかと思う様に目に余る様な事ばっかり言うたりしておった彼がです。今はそこの支店に居らなければそれが支店長を勤めてくれなければ出来無いと言うほどしにおかげを頂いておると言う事実がある。
一人はもうとうとうみふく寿司を辞めて、そしてあっちこっち転々としてから、また戻って来たのですけれども、それを○○の支店長にさせて頂いたらもうとにかく頑張って、今おかげを頂いておると言う事実がある。ですから考えてみると、今その○○工場の工場長は、そんなにがみがみ言うて、人が居つかない様にとにかく人使いが荒いと言った様な、もうあの様な人は辞めさせようかと思う位だけれども、是が何ヶ月か一年か、又二年経って行く内にはです。
いやぁこれが居ってくれなければ出来なかったと言う事があるに違いはないと思うのですけれども。目の当たりに見る所の、彼の行状というものは、社長として黙っておられないと言う様な場合があるわけで御座います。もうだから分かっちゃおれども、どうにも出来ないという。そこに信心のお互い稽古の焦点が、矢張りおかれなければいけんのです。もう一年後二年後にはです。
もうこんな奴は辞めさせようと、例えば思うておったのがです。一年二年の後には、その職人がおらなければ、その支店は困ると言う様な状態になって来ておる。だから今の問題、今踏ん舞えておる所の今目の当たりにです。もうそれこそ許しては置けない許せない、目に余る様な場合であってもです。是は神様の御神意にご神慮に違いはないと、先ず解らなければいけない。
そうしてそう云うものをですそれもおかげであるのですから、それを大事にする生き方を身に付けて行かなければならない。二年後にはぁあれが居ってくれて良かったと、分かっただけではもう本当は遅いのです。もうこんな奴は辞めさせようかと思うておった。こんな奴と思うておるのをはぁ此の人がどういう御神慮があって、みふくの何々の工場長をしておるのか分からんのですから、人間の浅い小さい考えで辞めさせるの辞めさせないのと、又は目に余ると思うて腹が立っておるけれども腹を立てる事じゃない。
是が本当はおかげの元であると言う事を、それが私に神様が力を下さろうとしておる事。それが私が今まで分らなかった事を、より深く分からせて下さろうとしておる、そこにその人が遣われておるんだと。段々解って来る時にすっきりと、例えばもう大将もうあげな工場長がおるなら、僕だん辞めますと言うのがあってもはぁおかげじゃがと、辛抱せろと頑張れとニコニコとしてその慰められたり、又ニコニコとしてその工場長にも接しられるくらいな寛大さというものが出来て来る所に。
私はいわゆる是もおかげであると言う事が分かった時に、初めて金光大神の世界が開けてくると思うのです。これは具体的に言う所の、金光大神の世界に住みつくための過程にはそう言う様な問題がお互いあると言う事です。だから簡単に金光大神の世界に住むというけれども、本当に金光大神の世界に住むと言う事は。それならばあれもおかげ是もおかげと思いさえすれば良い。そうですその通りなんです。けれどもそれは実際是もおかげであると実感させて頂く為に修行が要るので御座います。
皆さんどうでもこうして合楽に縁を頂かれたのですから、せめて合楽の世界に住まわなければいけません。今日直方の行本さんがお参りをして見えて、先生この頃の、十六日の報徳祭の時に。もう本当に、もうびっくりするじゃないですか。ここにはご結界がないのに、ちゃんとご結界があってね。
三代金光様がお座りになっておられたと言う。あん時のお祭りが。九州の恩人が四神様なら、三代金光様は合楽にとっての大恩人だというお祭りでしたよ。そういう大恩人であるとしての頂き方の中にです。もうそこに三代生神金光大神様のお働きを、ここに頂いておると言う事になるのです。もう三代生神金光大神の世界が、合楽に開けておると言う事になるのです。三代金光大神様、生神金光大神様がお取次ぎ下さる所の世界が、ここにあると言う事なんです。
今朝から一人は甲斐さんという宮崎の方が、電話をもうながながと掛けて参りました。この頃の十六日の報徳祭におかげを頂いて、七八名の方が参って来ておりました。あの三時半の研修の時にも、皆んなにも読んで貰うように出したんですけれども、もう六、七枚ぐらいたくさんな便箋に一杯書いてある事は、ちょうど御大祭の前日が確か日曜でしたかね、だから前々日からお参りをしてきて、大祭にはおかげを頂けなかったけれども、始めて参って来た方達がです。
もうとにかくそのいわゆる今日の朝の御理解に、歓喜という言葉を幾つも使っております。そのもうただ歓喜の世界というですか。全然信心のなかった者がです。親先生にあれもお願いをしよう。是もお願いしようと思って参ったけれども、親先生の御理解を頂いておる内に、もうそれこそ自分の心を見抜かれる様な御理解を頂いて、もう頭が畳から引っ付いて上がらなかった。もう本当に信心の有難さをです。そして自分のあの目の見えない方やら、色々な難儀な方が御座いましたがです。
もう自分の眼は見えなくても良い、一緒に行っておる、この人がおかげを頂いてくれるなら、もう自分の目は見えなくても良いと言う様な心が、あそこのお広前で起こったんですが不思議な事だと。もし奇跡が起きておる、奇跡が現われると言われる合楽で、もし自分のこの目が見える様になるならと言う願いであったけれども。一緒に難儀な問題の人が、一緒にお参りをしておる人の事をです。
もうその人がおかげを頂くならば、私の目はもう見えなくても良いと言う様な心が湧いて来ると言う事は、どうした事でしょうかと。合楽のお広前と言う所は不思議な所ですという。今日は手紙にその事が一杯それこそ歓喜という言葉を使ってです。歓喜に溢れる喜び一杯で帰らせて頂きました。帰り道々にも奇跡が起こった。帰ってからは尚更な事。そういう有難いおかげを頂いたという手紙が来ております。本当に有難い。
金光大神の世界に住むという事がです。理屈では今の高橋さんと私との問答ではないけれども、考えてみるとほんとに何年前にどこの工場長、あちらの支店長というのがですもうみふく寿司にはもう要らない。こげなものが居って貰うちゃ困るとまで思う様なのが、今お役に立っておる所を見ると、その時すでにそれはおかげであったけれども、凡夫で相分からず、それを困った事の様に思うておったが、今日ではそれがみふくに居ってくれなければ出来ない。
そんなら今日、只今踏んまえておる所の難儀な問題その事もです。矢張り神様のご都合に違いはないから、これを有難く頂かなければならない事は分かっておるんだけれども、頂けないという所に信心の稽古が要るのです。そこでいわゆる歓喜であります。喜びの世界があります。喜びに喜ぶ世界というものが心の中に開けてくる時にです。今までこんな奴がと思うておった、こんな奴が神様の姿に見えて来る様になる。そういう意味でです。只今合楽で信行されております所の。
表行よりも心行という心の行の必要。又は大祓信行がこの上ない有難いものになって来る。そういう有難い心で事を見る。人を見るのですから感じるのですからそこの所が。有難いと受けていかれる。そういう世界に住んでこそ、初めて金光大神の世界に住むという事が言えるのです。今年も余す所言うなら一週間。まだまだ是で良いとかもう安心と云う様な方は沢山はありますまい。まぁだ今年まぁ年の暮れまでには是もあれもと、まだおかげを受けなければならない事がありましょうけれども。
そういう問題は神様がぎりぎりの所では、必ずおかげを下さるのですだから下さった時には、はぁ良かったと言うだけではなくてです。そういう問題を通して、いわゆる今日皆さんに聞いて頂いた、金光大神の世界を自分の心の中に開いていかなければならない。金光大神の世界というのは広くて深くてもうそれこそ限りが無い。けれどもねほんの序の口とでも申しましょうか。
一番手前の所位な所ではひとつ金光大神の世界に、私は住んでおるなぁと思わせて頂ける様なおかげを頂いて貰いたい。そして今年の三十一日の言うならば大祓い式。まぁここでは、除夜祭と申しますが除夜祭にはそれこそ。「年の暮れ行きかう人の顔様々」ではなくて。合楽に通うて来る人達の顔が生き生きと喜び一杯で、一年中の御礼が申し上げられる。御礼の心一杯でそして新たな年を迎えさせて頂く様なお繰り合わせを頂きたいと思います。
どうぞ。